分断
人間は悲しいくらいに違ういうこと。
同時に、せつないくらい同じと言うこと。
同じ身体、思考の仕組みを持っているのに
言葉が違えばただ記号を投げ合うことしかできないこと。
ある日突然失明して、白杖を伴侶とすることになった人を
まるで違う生物を見るような目で見るとしても
彼らの世界の盲さを知ることはできなくでも
同じ人間であるということ。
違いは確かに存在して、しかもはっきりとした形で
違うということは誰にでもできる。
ではどこから違うのか?
ある人が徐々に視力を失うとき
どこからが「盲目」なのか。
はっきりしない境界線に、はっきりと区切られている。
ひとはいとも簡単に区切られるし、いとも簡単にまとめられる。
なぜひとを理解できないのか――他人は悲しいくらいに違うから。
なぜひとを理解できると思うのか――他人はせつないくらいに同じだから。
ひとを理解するということは
見えない透明な壁越しに叫ぶようなこと。
永遠にたどり着けない真理。
同じであることと、違うことは
現実に存在する虚構。
フランス語がわからない私には
フランス語と火星語は大差ない。
けれど、サン=テグシュペリの言葉を美しいと感じる心は
わたしもフランス人も同じ。
記号はひとを高度につなげることができる。
同じ記号体系の中に生きる人はかなり複雑な言い争いができる。
記号は同じくらい高度に人を分断する。
そう、ひとは記号に分断されるのであって
ひとがひとを分断するのではないのだと
もし忘れなければ
あの矛盾する問いにも耐えられる気がする。
人が悲しいくらい違って、せつないくらい同じなのは
当たり前なことか、不可解なことかという問いに。
読むこと、書くこと
こんにちは。都内の某大学院生です。
書いたものをどこかに載せてみたくて、初めてブログを作りました。
いつまで続くかわかりませんが、やってみたいと思います。
ちなみに、このブログのURLに含まれるMACS0647-JDというのは、現在地球から最も遠い天体だそうです。
今、ここにいる自分から、離れてみたい。それが、人が他人の書いたものを読む原点ではないかと思います。小さい頃、自分以外の誰かの人生を生きている、とか、知らない土地に降り立っている、とか、そんな感覚が楽しくて、物語を求めていたのを覚えています。思春期に差し掛かると、あの時期特有の自己嫌悪から、他人を羨んだり、憧れの人に自分がなれないことを悔やんだりしたものです。自分はいくら頑張っても自分でしかないと、大人になって認められるようになっても、やはり他人の人生というのは永遠の謎で、どんなに近しい家族や恋人、友人であっても、彼らの目で世界を見ることができないという当たり前の事実は、ほかほかと私たちの目の前に焼き付けられ続けるのです。読むことは、この世界で一番近くてシビアな事実を一瞬だけでも覆してくれる魔法です。
そして、書くことは、自分としてしか存在し得ない自分を棚上げして、まるっきり他人の生を体験する場であると思います。そしてその落差、あるいは跳躍は、大きければ大きいほど面白い。今人間が可能性を目いっぱい使って到達できる一番遠くの場所で、例えば寒さを感じることができるとしたら、それは書くことを通してでしょう。
そんな体験をしてみたいですし、共感してくださる方に出会えれば幸いです。